実践女子大・生涯学習センターの公開講座「多摩ふるさと学〜戦時下の多摩を歩く〜」(全9回)に参加した。

この講座は、「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」という地元多摩の高校教諭ら有志で組織する研究会メンバーが交代で講師を勤めてくれた。
最終回12/9は、JR高尾駅から歩いて15分くらいの山中にある中島飛行機の浅川地下工場跡の見学だった。
地下壕の中は、小雨が降る外より温かく、高さ3メートル、幅4メートルと思ったより広かった。
昨日12/10は、晴天であった為、中島飛行機・武蔵製作所跡(武蔵野市緑町近辺、現在:NTT電気通信研究所武蔵野市役所、公団のパークタウン、分譲のガレリア、武蔵野中央公園)の敷地を、歩いて1周をしたが、丁度40分くらいの散歩となった。

中島飛行機株式会社(1917〜1946年)
群馬県出身の海軍機関大尉・中島知久平が設立した戦前の日本を代表する航空機トップメーカー。
零戦の2/3は中島製であり、その全てのエンジン(発動機)を中島飛行機が供給した。
・戦後、同社は富士産業と名称変更し、民需転換を図るが、財閥解体1号に指定され分散。
朝鮮戦争を契機に、富士重工業株式会社として6社が再結集した。(スバルの6つの星はその意味)

中島飛行機・武蔵製作所
・1938年に陸軍専用工場として武蔵野製作所(東工場)、1941年に海軍専用工場として隣接地に多摩製作所(西工場)を開設
・1943年に、西工場と東工場を合併させ、武蔵製作所とした
・従業員5万人、面積56万平米
・空襲は1944年11月24日〜1945年8月8日にかけて9回にも及び、1945年7月29日には柳沢に「原爆模擬爆弾」が投下された。長崎に原爆を投下したB29「ボックスカー」が投下
 →1ヵ所にこれだけの回数の爆撃があった場所は、国内でもここだけ

中島飛行機・浅川地下工場
・1944年9月、陸軍倉庫として佐藤工業が掘削工事を開始(イ地区)
・1945年2月、ロ地区、ハ地区の工事開始。大倉土木(現・大成建設)も加わる
・1945年春頃、武蔵製作所の疎開開始。夏には一部で操業開始
・イ地区は、総延長4.8キロメートル、東西に9本、南北に9本の豪が碁盤目状に掘られている

掘削工事業者の2社
佐藤工業:富山県で幕末から続く土木会社。黒部第3ダムの掘削を担当。浅川ではイ地区とロ地区を担当し、配下の約500名の朝鮮人労働者を呼び寄せ、家族を含めると1500名の集落となった。
・大倉土木:下請けの池田組に掘削させた。池田組は静岡県焼津の日本坂トンネルの掘削工事に携わった独身の朝鮮人労働者100人を呼び寄せた。ハ地区を担当。