明治大学の公開講座「明大出身社長に、経営の今を聴く」という寄附講座で、エイベックス元会長の依田巽(よだ たつみ)氏の講演が企画された。45歳までサラリーマンとして思う存分に仕事をやった後、海外ビジネスの経験を生かしての独立。二周り違う若者達との出会いと依田氏の豊富な海外ビジネス経験の融合により、音楽業界で新しい価値を生み出すことができた。
最近、明大OBのベンチャー経営者の話を聴く機会が多い。
<講演メモ>
講演テーマ:『成長企業の社長学
〜創業15年で年商800億!「エイベックス」成長のリーダーシップとは〜』
○人との出会いと運命
長野高校に入学した時に、周りが秀才ばかりで、勉強では叶わないと思った。
大学時代に下宿の近くに、早稲田の名取先生の紹介で、歯科業界の長田電機に就職。
23歳で入社8ヶ月で、新規事業の輸出業務で、自分の年収の4倍の大口契約を取った。
○海外ビジネスを極める
長田電機で6年間、海外向け輸出業務を担当し、自宅から徒歩20分の山水電気に転職。
山水では米軍向けの営業を担当し、ベトナムからハワイを行き来していた。
35歳でロサンゼルスの在庫の山を処分するよう言われてから、45歳まで米国に駐在。
○45歳からの独立
山水電気の取締役を退任し、翌々日に米国に戻り、
1988年3月16日にトーマス・ヨダ・リミテッド(後にTYに変更)を設立
日本を離れて海外駐在が長くなると一匹狼になってしまう。
経験と米国での人脈を生かして輸入エージェント業をスタートさせた。
○若者達との出会い
知り合いの紹介で、当時、二周り違う3人の若者(33歳、24歳)と出会い、
エイベックスを一緒にやる事となった。
彼らは町田の2LDKのアパートで6〜7人で仕事をしていた。
彼らは「ダンスミュージック、ユーロビートに特化したユーザーが
聴きたい音楽をやりたい」と夢を語っていた。
メーカーの「ノックダウン」の発送を音楽というソフトウェアに応用し、
イタリアで権利を買い、CDを作成して日本に輸入して成功した。
○エイベックスの成功への道のり
業界の常識はエイベックスの非常識。
オリジナリティを追求し、オンリーワン・カンバニーを目指した。
翌年の1989年には利益を出せ、1991年にテクノハウスの輸入に成功し、
ジュリアナ東京を立ち上げ、50数歳にして毎日、ジュリアナに通った。
TRFがブレークし、自分達で90年にレコード会社を設立し、不況時の
深夜CMを買取り、CMの最後には必ず「エイベックス」の社名を入れた。
独立系で、資金も独自で用意できた。
1993年には年商76億円となり、4億円をかけて東京ドームで無料イベント
を成功させ、ニューヨーク、ロンドンに支店を出した。
1994年にオリックスから資金調達し、ヴェルファーレを開店。
○コンテンツビジネス成功のポイント
・鯛一匹を食ぺ尽くす:
コンテンツは権利の塊であり、ワンソース・マルチコースでグループ
展開を図る。
・バリューチェーン展開:
音楽、映像、IT、海外を柱にグループ内でヒト・モノ・カネを回す経営
・バランス感覚が大切:
制作・管理・財務・営業とのバランス
→全ての部門毎に創業メンバーに任せることができた。
・社員との価値観の共有:
経営理念の徹底、社員全員株主
朝礼、社員旅行、誕生会を企画する。
税金を正直に支払い、配当性向を30%以上としている。
○エイベックスのターニングポイント
・なぜ大手商社からの出資を断ったのか?
顔の見えない企業が株主になる事は、若い経営者にとって危険だと判断。
・なぜ上場を目指したのか?
社会に認められる企業を目指し「いい会社」にしたかった。
・なぜ音楽配信事業の開始に踏み切ったのか?
1996年にマルチメディア事業部を設置し、Webサイトをオープン。
2000年にエイベックスネットワークを設立し、配信事業を開始。
・文化を生み出す会社として、多様性のある文化が日本にはあるべきである。
音楽業界では1社も倒産した会社はない。
○私の経営哲学
・志誠一貫 →社会にとって存在意義のある企業を目指す
・真・善・美
・チャンスの女神に後ろ髪は無い
→チャンスを掴む運を呼び込む。自分はできるんだと思い込む。
・継続は力なり
→一時的な金儲けではなく永続させる
・王道を行く経営
・経営者の資質→才覚(アイデア・感性・能力)から人格(心・教養・智力)へ
・人の縁を大切に
・次世代の経営者へ
→感謝を心がけが大事。無意識の内に「独我自尊」になってしまう。
・忘個利多
→人の為に皆が良くなればいいと考える
○今後の夢
・東南アジアに貢献をしたい
・中国人が「日本から持ち帰りたい物」として、日本米とりんごが挙がっている。