以前、京セラの稲盛会長の講演会で、「『南洲翁遺訓』(『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)』の中にある)という書と出会い、「敬天愛人」を会社の基本理念に決めた」と言っていたのが、ずっと頭の片隅に残っていて、西郷隆盛に関心を持っていた。

この本は、夕刊フジに2006年5月9日〜12月29日にかけて164回連載された「西郷隆盛伝説」を単行本化したもの。原稿量は400字詰原稿用紙で約500枚だそうだ。
戊辰戦争時に、敵味方に分かれたはずの荘内藩出身の2人の若者が、その後、西南の役で西郷と共に戦死しているという事実を知り、その経緯について、詳細に文献調査がされている。

あとがきで、佐高氏の「歴史は勝者がつくる。そして、勝者の側に立って書かれた歴史が「正史」として流布される」というメッセージが心に残った。

西郷隆盛を祀る南洲神社が全国に4箇所あるそうなので、宮崎以外の3箇所については、できれば出張の時に足を伸ばしてみたいと思う。
本書で度々引用されている小島直己の『一燈を提げた男たち (新潮文庫)』を読んでみたいと思う。


西郷隆盛伝説

西郷隆盛伝説


<読書メモ>


戊辰戦争
 ・薩摩と長州を中心とした官軍にとって、東北における強敵は会津と荘内だった。
  会津の松平と、荘内の酒井は、徳川幕府の重鎮だったからである。
  会津藩は悲劇的な最期となったのに対し、西郷の恩情により荘内藩は無血開城
  あったことより、荘内藩は西郷に傾斜していった。


○4ヵ所の南洲神社
 ・鹿児島県、沖永良部島(西郷が3回島流しされた)、宮崎県都城(かつての薩摩の
  領土)、山形県酒田にある。
 ・酒田の南洲神社の標識は安岡正篤(まさひろ)が書いている。


○歴代総理の指南役・安岡正篤(1898年〜1983年)
 ・「不如会」:毎月1回100人近い経営者があつまって『十八史略』などを教材に
  安岡を囲む勉強会があった。
  東京電力社長の平岩外四を初め、新日鐵野村證券などの社長が集っていた。
 ・「而学会」:牛尾治朗堤清二、外務省・小和田恒防衛庁佐々淳行
  黒川紀章江藤淳など、当時の若手財界人と官僚が集う会もあった。
 ・「関西師友協会」:関西在住の安岡を囲む会で、当時の会長は、住友生命
  新井正明・会長だった。
 ・吉田茂は20歳年下の安岡を「老師」と呼び、池田隼人、佐藤栄作は「先生」と
  読んでいた。池田から大平正芳に受け継がれた派閥「宏池会」の名づけ親。
 ・官僚エリートの歴代総理に対し、田中角栄三木武夫などの党人派のは、
  安岡に距離を置いていた。
 ・安岡は「松下政経塾」の相談役にもなっていた。
 ・20代前半で陽明学者として政財軍関係者に広く知られ、1927年に伯爵酒井忠正
  邸に「金鶏学院」を開塾、大川周明拓殖大学の講師にもなり、27歳で海軍
  大学に特別講座を持ち「日本武将論」を講じた。
  1931年に、池田成彬(三井財閥)、小倉正恒(住友財閥)、結城豊太郎(安田財閥)
  をスポンサーに、日本農士学校を創設。
 ・戦中は小磯国昭鈴木貫太郎、両内閣の大東亜省顧問を務め、終戦の「玉音
  放送」の文案を添削し、戦後は戦犯として追放され、昭和26年に解除。
  「平成」という年号の命名者。
 ・こんな安岡も死の直前には正常な判断力を失い、細木数子に婚姻届を出され、
  安岡家がその無効確認を求めて調停を申し立てるという騒ぎを起こしている。


○西郷に惹かれるもう1つ系譜「田中・四元系」
 ・四元義隆は、最初は安岡に学んだが、安岡と対立する右翼的な考えを持つ
  田中清玄(きよはる)の後を継いで、三幸建設の社長となった。
 ・四元も安岡同様に「歴代総理の指南役」と言われ、中曽根康弘細川護煕
  近かった。田中清玄は田中角栄と親しかった。
 ・四元は1932の血盟団事件連座し入獄(懲役15年)、40年恩赦で出獄後、
  近衛文麿鈴木貫太郎のブレーンとして活躍。
  血盟団事件、四元が狙ったのは安岡が敬慕した内大臣牧野伸顕(大久保
  利通の次男で、吉田茂の岳父)だった。
 ・四元を指南役とした中曽根康弘は、安岡に接触を求めたが安岡は会うことは
  なかった。
 ・安岡を師とした大平正芳の女房役の伊東正義は四元に傾倒したが、共に
  源流の西郷を敬愛することでは同じだった。


○住友の西郷隆盛と言われた「伊庭貞剛(いばさだたけ)」
 ・伊庭は裁判官から、住友に転身して二代目総理事となった。
 ・「少壮と老成」と題した一文で「事業の進歩発展に最も害をなすものは、
  青年の過失ではなくて老人の跋扈であり、老人は少壮者の邪魔をしない
  ようにするということが一番大事だ」と喝破し、引き際も鮮やかだった。


靖国神社
 ・政府に反乱軍の代表である西郷と、維新の役で賊軍とされた会津藩将兵は、
  靖国神社に祀られていない。
 ・靖国神社の由来は、招魂社と呼ばれた長州地方のお社で、長州藩護国神社
  それを大村益次郎が東京九段に勧請し、一般の神社が内務省の管轄下にあった
  のとは違い、陸軍省海軍省が管理していたもので、皇室とは全く関係ない。
 ・平成天皇は一度も靖国参拝はせず、昭和天皇も敗戦後に1度行ったのみ。(清玄談)